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歴史写真 by HPA on 9月 4th, 2013
呉市御手洗(みたらい)は、天然の良港として瀬戸内海を航行する船の重要な潮待ち港として栄えました。
江戸末期には、公武合体派に敗れた七卿たちが長州への途中で立ち寄った場所、広島藩と薩長土肥の各藩で結ばれた御手洗条約締結の舞台になるなど、歴史的にも重要な地となっています。
さらに、北前船や西国諸大名の参勤交代などに利用され、御手洗は物流の拠点・花街としても繁栄し、広島藩公認のお茶屋には数百名の女性たちがいたと伝えられています。
そのような御手洗は、現在国の「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受け、いまでも古い町並みと歴史が数多くの残る港町です。
広島写真美術協会では歴史の写真保存活動として、平成25年7月13日御手洗での撮影を行いました。
御手洗の風景
おいらん公園・・・時代に翻弄され、花街としての御手洗を支えた女性たちを、地元の人たちが丁寧に供養されている場所です。


御手洗に残る歴史建造物
若胡子屋(わかえびすや)・・・御手洗には広島藩公認のお茶屋が四軒ありましたが、現在では若胡子屋のみ残っています。この場所で華やかなおいらんや三味線の音、旅人達のつかのまの笑顔など偲んでみてはいかがでしょうか。



歴史写真
歴史写真の保存は、ご家庭に残っている古い写真を再度デジタル撮影しデータとして保存する作業ですが、今回は御手洗の皆様のご協力により集められた写真の中で、御手洗の歴史に関係があると思える写真選び保存撮影したものです。

「御手洗港」

「御手洗港」

「おちょろ舟と女性」

「おちょろ舟と女性」

「花街の女性」

「花街の女性」

「花見・大正~昭和」

「御手洗の町・昭和40年頃」
現在に残る御手洗の古い写真など画像は随時追加していきます。
撮影参加者
大島邦夫、秋田隆司、小西敏治、井深壽一、渡橋博美、藤堂邦夫、中村 實、新田英樹、広兼高士、ボランティア高橋早紀、の10名です。
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歴史写真 by HPA on 2月 23rd, 2013

かよこバスより少し後に登場した「広島~高揚~可部」間の乗合バス(シボレー)です。
画像保管・藤堂 邦夫 大島邦夫
「宍戸オートバイ」さんは、大正~昭和初期に広島にあったオートバイ製造企業写真です。







宍戸オートバイさんは大正4年に創業され、大正から昭和初期にかけて広島市で操業されていたオートバイ製造の企業です。
当時は軍部を中心に納入されていたようですが、約10年で会社は閉じられており資料は殆ど残っていません。この画像は、宍戸元信さん宅に保管されていた写真乾板(ガラス)を広島市交通科学館に寄贈されていましたので、現在その乾板が保管されている広島市公文書館にて、宍戸元信氏たちあいのもとHPAがデジタル保管作業をしたものの一部です。
(広島市交通科学館にはオートバイの模型が展示されています)
撮影保管・大島邦夫 渡橋博美 松本宏子 広兼高士

提供・松本様
当時三菱重工長崎造船所の設計室で大和の姉妹艦である武蔵の設計を進めていた私は、戦艦大和を作った呉海軍工廠から図面を多く受け取っていました。
大和の公試運転が四国の土佐沖で行われるときに、実験場(今で言う研究所)の写真班が向かい、曳船から大和を撮影。戦後、写真班から大判のプリントをもらい、その写真をもって広島造船所に転任。
図面のマイクロフイルムを発注していた広工で大判の機械が入ったと言われ、大和の写真のネガを作成してもらいました。
画像保管・松本宏子 大島邦夫
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歴史写真,
特別展示室 by HPA on 7月 19th, 2012

「広島復興大博覧会」撮影・明田弘司(あけたこうし)1958年
昭和33年に平和大通りで行われた広島復興大博覧会です。
「ザ、パール」

「ザ、パール」1911年(明治44年)小西本店(現コニカミノルタ)
8×10.5、8×13.5cm判、手札判乾板は118フィルム使用のハンドカメラ、ボディは国産だが、当時は良い国産レンズもシャッターも無かったので米国またはドイツ製を取り付けた。価格は135円位から各種あり。
コニカはわが国最古のカメラメーカー、創業明治5年 杉浦六右衛門、最初の量産カメラは1903年(明治36年)チェリー手堤暗函と言われている。
「八九式活動写真銃 改二」


「八九式活動写真銃 改二」1933年(昭和8年)小西六本店(現コニカミノルタ)
35mmフィルム使用のスプリング動力式連続撮影カメラ、画面サイズ24×18mm、引き金式シャッターを切ると一連写10コマ/秒、70枚の連続撮影が可能、海軍高等練習機「白菊」や九十式艦上戦闘機の後部旋回機銃席へ半固定して射撃訓練をする目的で使用された。
ストップウオッチにもなるネジ巻き専用時計(同時展示、裏にカメラ名刻印がある)をエボナイト整風防内へセットすると、画面の一隅に時計が写り、撮影時刻がかわかる。東京の日本カメラ博物館所蔵の同型カメラは風防がないタイプ。
第一次世界大戦後、海軍艦政本部の山田幸五郎氏が英国へ出張し、ソルントンピッカード製ハイス型写真銃の設計図を入手、これを元に15式写真銃が造られ、この改良型が「八九式活動写真銃 改一」1929年(昭和4年)として正式採用された。改一は一連写32枚、連続224枚の撮影であったが、改二はフィルム節約型となった。
大変用戦争初期に無敵を誇ったわが零式戦闘機名の由来は、わが国固有の年号皇紀(初代の天皇神式即位が元年)2600年(昭和15年)に正式採用されたからで、昭和16年採用の陸軍の隼戦闘機は一式戦、隼の前の九十七式戦闘機は昭和12年採用を表す。
「マミヤシックス Ⅰ」

「マミヤシックス Ⅰ」1940年(昭和15年)マミヤ光機制作(現マミヤオーピー)
20フィルム使用の6×6判スプリングカメラ、距離計に連動していてフィルム面を前後させピントを合わせる独特の機能を持つ(バックフォーカシング、間宮精一氏考案、6年後英国エンサインコマンドが模倣)またシャッターを切るファインダーに赤いマークが出て二重撮影防止警告をする。価格248円。
「タローフレックス」

「タローフレックス」1943年(昭和18年)日本光測機
タロンは旧社名を光測機といい、戦後からNKS名のレンズシャッターを造っていた老舗メーカー(社長は柳原多三郎氏)、戦争が激しさを増した昭和18年日本商会からの依頼で二眼レフ「タローフレックス」を製造、カメラメーカーになったが次期社長の長男和雄氏が結核療養中であったため、戦後カメラ製造に参入したのは遅く、昭和30年頃からもっぱら大衆カメラをつくったが昭和40年頃倒産。
戦前のタローフレックスも同時展示する「贅沢は敵」兵器優先の時代、このレンズのアウトフォーカス部は反射望遠鏡みたいな面白い円形ボケでシャープとは言えないが生産台数は希少と思われる。
「コニカ 1」

「コニカ 1」1984年(昭和23年)小西六(現コニカミノルタ)
老舗小西六、戦後の35mm1号機、やはりオキュパイド ジャパンとある。沈胴式でセルフコッキングにはなっていない。
「マミヤ 35」

「マミヤ 35」1948年(昭和23年)マミヤ光機製作所(現マミヤオーピー)
35mm判、距離計連動式レンズシャッターカメラ、フィルムを巻くとシャッターが自動的にセットされるセルフコッキング機構を採用。マミヤシックスと同じくフィルム画面を前後させてピントを合わせる(バックフォーカシング)。軍艦部などマミヤシックスの部品を使っている。価格24,000円 メイドイン オキュパイド ジャパンの刻印あり。
「アサヒフレックス Ⅰ」

「アサヒフレックス Ⅰ」1952年(昭和27年)旭工学工業(株)(現ペンタックス)
国産初の35mm フォーカルプレーンシャッター式一眼レフカメラ。しかし、このカメラはまだクイックリターンではなく、シャッターを切った後、指を離すとミラーが復元し画像が見える方式。レンズ絞りは普通絞りでクリックはない。価格23,000円
保存撮影・オーシマ スタジオ(有)・大島邦夫(おおしまくにお)